死んだ父に送った初めてのLINE
はいどうもイシハラです。
2021年6月に会社を辞めてフリーランスになったイシハラです。
僕の人となりはこちらプロフィールに書いていますのでぜひチェックしてください。
実の父が生きていたらどんな人生になったのか
僕は0歳の時に実の父を亡くした。
母と再婚した二人目の父は、とても僕を愛してくれているので、父親がいない寂しさは感じてはいない。こちらの記事「僕が0歳の時に実の父が死んだ理由」にも書いているけれど、寂しさという感情はないにしても、悲しくはある。
二度と実の父に会えないという現実に、たまに苦しくなることだってある。実の父がいたら、良くも悪くも今の僕の状況は全く変わっていたのだろうから。
先日書いた自伝小説「まっすぐに」でも実の父のことに触れていたので、最近は実の父を思い出すことも多かった。
死んだ父に初めてLINEを送ることになった日
会社では、8時間のうちおおよそ6時間もの間、デスクに座り、MacBookのキーボードをカタカタと鳴らし文章を書いたり、Magic mouseでプロダクトのデザインを描いたりしている。
体を動かさない分、体力的な疲れはないが、頭の重さは毎日のように感じる。
特に、午前中にアウトプットする作業を入れるので、午後になればすっかり想像力は欠落している。だから僕は必ず30分の昼寝をすることにしている。
昼寝後は、午前中に使ったウィルパワー、いわゆる集中力のようなものが少しだけ回復するので、午後の作業もまた一段と効率的な時間となる。
今日もいつもどおり、昼寝を済ませ、午後イチのタスクであったクライアントとの打ち合わせを行っていた。
その時 ― 手首の上のApple Watchがブルブルっと震えた。
Apple Watchの液晶画面は、母からの電話を知らせていた。しかし僕は打ち合わせ中だったので、後でかけなおそうと思い、そのまま電話をとらなかった。
電話の着信が止み、打ち合わせに意識を戻そうした瞬間に、また母から電話がかかってくる。
最近母は、らくらくスマートフォンを使いこなし、LINEを覚え、メッセージでのやり取りもスムーズになっていた。LINEを使うことに楽しさを感じているようだったので、わざわざ電話をしてくるということは何かあったのだろう。それに母は、長崎ではなく、ある用事で大阪にいたので余計に、LINEではなく、電話をかけてくることに「何かがある」ことは明確だった。
二度目の母からの電話に緊急性を感じた僕は、「すみません」とクライアントに言い、打ち合わせ場所から離れた。
「もしもし? どうしたと?」
僕は少し不安げな声で母の電話をとった。
「今ね、イッペイちゃんの本当のお父さんの墓の前におるとよ。だけん、今その電話越しでよかけん、一緒に手を合わせよう」
とてもゆっくりと、とても静かに、とても温かい声で、母は僕にそう言った。
それを聞いた瞬間、声が出なくなり、ただただ涙が溢れた。
「手は合わせたね?」
母が僕にそう尋ねたてきたけど、声がでなかった。返事がない僕を察して、母は「ありがとう」と言った。
だから僕も、声にならない声で、「ありがとう」と小さく応えた。それからすぐに電話は切れた。
「何もこのタイミングでそんなことしなくても」ということを少し感じたけれど、タイミングもクソもあるわけない。ただただ母に「ありがとう」そして実の父に「ありがとう」という思いだけが残った。
そしてすぐに母にLINEを送った。
いや、死んだ父にLINEを送った。
もちろん、実の父には二度と会えない。僕にとってそれは悲しいことだ。
でも、もっともっともっともっともっと死にそうなくらい悲しい思いをしたのは ― 母なのだ。
僕を生み、一生をかけて愛する人と共に人生を歩もうとした矢先、その愛する人を急に亡くしたのだ。
母は、恐ろしいほどに悲しい思いをして、今を生きている。そのことを思うと、どんどん涙が溢れて止まらなかった。
***
「え? 大丈夫ですか? どうしたんですか?」
たった数分の間に目を真っ赤にさせて戻ってきた僕に、クライアントが驚いたように心配する素振りを見せた。
「まぁ、俺にも色々あるんすよ〜」
少しふざけたような顔を見せながら、目を真っ赤に腫らせた僕は何事もなかったように打ち合わせを再開させた。
***
仕事を終えた僕は、車の車窓から流れていく夕暮れの空に、昼間に我慢していた泣き残しの涙をとめどなく落とした。
僕だけじゃない。
人は色々な悲しみを乗り越えて生きている。それはずっと変わらないし枯れることはない。
誰かの心の中に誰かが住み、誰かの心の中でこうやってずっと生き続けているんだと、僕は思う。