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イシハラ イッペイ

  • 名前:イシハラ イッペイ
  • 本名:石原一平
  • 生年月日:1981年5月2日生まれ
  • 血液型:A型
  • 在住地:長崎
  • 配偶関係:嫁さん、子(姉妹)
  • 職業:会社員|デザイナー|クリエイター |ライター|ブロガー|YouTuber
  • 性格:人見知り(だからこそ、明るく社交的に振る舞うことができる)、マイペース、頑張ることが嫌い、楽しいことが好き、めんどくさがり屋。

ライフワーク

  • 広報企画(企業)
  • オウンドメディア運営(企業)
  • デザイナー
  • ライター
  • ガジェットブロガー
  • ユーチューバー
  • Webマーケティング
  • ブログで自分の好きなモノゴトを発信し続けているガー
  • あなたの好きなモノゴトを発信するお手伝いができるガー

これらのことをライフワークとしています。

僕が情報を発信しているSNSやプラットフォーム

僕は基本的にこれらのプラットフォームを使って自分の情報発信しています。もしよろしければお気軽にフォローしてください。

Facebookに関しての友だち申請については、共通の友人、SNSでつながりのある方、当ブログの愛読者、もしくはリアルでお会いしたことのある方(セミナーやコミュニティなど)である場合などはほぼ申請して頂き認証させて頂きます。

その他の方については無言申請OKですが、こちらで精査させていただきます。

ではここからは、少し僕の人生について話をさせて頂きます。

子供の頃に見た未来

子供の頃に見た未来の見出し画像

俺は大阪で生まれ、長崎県にある五島列島で育ちました。

母の教育方針を一言で言うなら「自由」。

「勉強しなさい」「それはダメ」「あれはダメ」「ちゃんとしなさい」そんな数々のしつけというものからは程遠い、「それ良いんじゃない」「やったね」「やってみよう」「それじゃ仕方ないね」などなど、甘やかしの境地でした。だから、何をするにも、怒られるということがあまりなく、自由に好き勝手なことをしていました。

好き勝手にしていたので、外向けには自由で社交的な性格に見られることが多く、「明るい」「元気」「面白い」「前向き」「悩みがない」といういわゆる明るく元気な子という鉄板イメージを持たれ、何不自由のない子供時代を過ごしているように思われていました。

しかし、自由に好き勝手にしていた分、自分で何事も決断してしまわなければならないことが多かったので、”自分で選択して生きる”ということが多く、良い意味で自立心が早く、悪い意味で自分勝手になっていました。

それは”自分の意見や考えは否定されるべきものではなく、尊重されるもの”という価値観を、良いも悪いも形成していました。だから、実際は「ネガティブ思考」「自信がない」「嘘つき」「怠け者」「面倒くさがり屋」「内向的」「人と関わるよりも一人でいたい」「努力することが大嫌い」という全く正反対の性格でした。

つまり、「やりたくないことはやらなくていい」という決断をしてしまうことが多く、あらゆることで努力することを怠って、「目の前のことを楽に怠けてやろう」ということばかりを考えていました。

その結果、「何をしても一番になることができない」「何をしても中途半端で長くは続かない」「何をしても結果を残せない」そんなことばかりでした。

だから、子供の頃に、よくこういう未来を見ていました。

「俺にはなんだってできる!」という不確かな自信を持つ反面、「どうせ俺は中途半端な人間だから、大きな夢を掲げても結果を残すことなんてできるわけがない」と、何事に対しても「諦めること」が早く、「どうせ上手くいくわけない」という結果を見ていました。だから、学校の勉強や、クラブ活動や習い事などなど、100%の力を発揮することはなく、すべてにおいて「適当」にやってきました。

その適当という言葉は、「俺の力の限界を示していた言葉そのもの」だったんだと今になって思います。

もちろん、「本当はもっと色々なことに対して努力したいし、結果を残したい」ということへの渇望もありましたので、それができない自分に対して、いつもやりきれない思いを抱いていました。つまり、もっとこうなりたい!もっとああなりたい!という願望だけ持っているだけの「ただの適当人間」でした。

「どうせ上手くいくわけない」という結果を見ながら、「やりたいこと」「叶えたい夢」はたくさんあって、それにチャレンジしている時はものすごく充実した気持ちにはなっていました。

例えば、僕は絵を書くのが大好きでしたが、「画家とか、漫画家には絶対になれない」と思っていました。

でも、好きなことをしている時はすごく充実した気持ちになっていたので、「結果はでないけど、長く続けられる=楽しく人生を過ごす時間」にすることはできていました。

10代「夢の挫折」

10代の頃の夢の見出し画像

ほぼすべてにおいて「中途半端な人生」を送っていた子供時代を終え、10代半ばに差し掛かった時、「華やかな舞台」に憧れを持つようになりました。

それは、ミュージシャンです。

大阪に生まれ、五島列島という離島で育った俺は、ミュージシャンになるために単身大阪へ。その夢を追う行動力を自分で褒めたいほど、ぶっつけな勢いでした。

音楽に取り憑かれたように、毎日ライブ活動や楽曲製作に明け暮れる日々。

でも、心の奥のどこかでー

「叶わない夢を追いかけて、俺は何してんだろう」

子供時代に培ってしまった”面倒くさがり屋””どうせ俺の夢は叶わない”というパラダイムからは、そう簡単には抜け出せず、ミュージシャンになるための努力でさえ怠ってしまうことが多々ありました。それはある意味で「あの時、もっとできたんじゃないか」という、自分への都合の良い解釈とも言えます。

今思えば、あの頃は夢を追いかけようとする自分の姿を、ただ美化していただけだったようにも感じます。

その反面、「面倒くさがり屋な自分自身の中途半端な人生を、夢を追いかけようとする行動で、なんとか変えたい!」そう思いながら、自分自身と戦っていた時期でもありました。

そんな大阪で過ごしていた時、夢に関すること以外にも様々な経験をした波乱万丈でもあった時期です。以下に、その大阪での経験をブログ型の短編小説にしています。随時、時間があれば新しいもの書いていこうと思っています。

【短編小説記事】人生の転機となったクソ辛い過去を短編自伝小説風に書いた|EP①「無銭カツアゲ暴行事件」 

結果、失意のどん底でふるさと五島列島へ逆戻り。

そこでやっぱり気づいたんです。「俺は自分のやりたいことの結果一つも残せない、本当に中途半端なやつだな」って。

そこで初めて”人生の挫折”を味わい、「人生からの転落」を経験しました。

それからしばらくは、明日を考えずに目の前の娯楽にばかりすがり、生きてる実感のない毎日をただやり過ごしていました。

なんの夢も持たず、心の底から笑えない、自分の情けなさに失望した日々

進化も成長もない荒れた日々

それから、すべてを失ったかのように自分らしさを忘れ、ただ周りと同じようなことをする日々、”やんちゃなこと”をしておけば楽しめるという安っぽい価値観で生きていました。

昔の自分の写真

ただひたすら出口のないトンネルを、小さな小さな希望と大きな大きな不安を抱えながら、今にも電池が切れそうな懐中電灯を片手に、恐る恐る歩いていく。

「どうして俺は、こんなになってしまったんだ」

そんな自分への葛藤は、次第にもっと奥の奥の方まで自分らしさを追いやっていきました。

出口なんて探しても見つからない。いや、出口なんて探してさえいない。

恐ろしいほどに、人生に対する執着がなくなりー「俺なんて生きていてもしょうがない」。そんな言葉に、毎朝ヘビーローテションのように苛まれながら、1日、そしてまた1日が過ぎていきました。

自分らしい人生に

それが人生というものだの見出し画像

面倒くさがり屋で中途半端な自分自身から、背伸びをしようとしていた10代。

それほど高くないところから、案の定、転落してしまった20歳前後。

でも、そんな自分から逃げたりするんじゃなくてー

そんな自分を変えようとするんじゃなくてー

「ちゃんと自分の足元をみよう。挫折があったり、失敗があったり、中途半端な人生ではあるけれど、それが自分らしく生きることじゃないか」

自分は変えられない。

だから、自分の歩んでいく”人生”を変えていくー

そんな風に自分を思わせてくれたのは、死んだ父の存在でした。

僕が0歳の時、実の父は死んだ

僕の実の父は俺が0歳の時に死にました。だからもちろん、実の父のぬくもりや、表情は写真でしかみたことがありませんし、声なんて一度も聞いたことがありません。

実の父が0歳の時に死んだことについては、子供時代から認識はありました。しかし、その死因についてまでは全く知りませんでした。僕が20歳を過ぎても人生に活路を見出すことができていなかった頃、それを見かねた母から実の父の死んだ理由と、その愛する人を失っても尚、生き続けられた母の悲しみと決意を聞かされました。

それは、母からの「だから、あなたもちゃんと前を向いて」というメッセージが込められていたんだと思います。

コチラの記事に、「死んだ父の死因」、「母の悲しみと決意」、それを”自分らしく人生を生きるためのメンタル論”として書いた記事がありますので、合わせて読んでみて下さい。

悔いのない人生を送るための魔法の言葉「明日って、あと何回来るんだろう?」俺が0歳の時に死んだ実の父から学んだ、自分らしく生きること。

それらの理由を聞かされた時、まるで子供のように、すごくすごくわがままに、涙が枯れるほど泣きました。”死”というものとの距離を、とても近くに感じ、それが本当にただただ悲しいものだと悟りました。

それはー

「二度と変えることができないこと」

でも、「生きているなら、変えられる物事はいっぱいある」

死んだ父の人生は変えられないけど、生きている自分の人生はこれから変えられるー

その時初めて、母の教育方針である「自由」という意味に、「私の愛した人のように、人生というものはいつ終わるかわからない。だからこの子だけは自由に生きてもらいたい。」という理由が付け加えられました。母からもらっていた愛情や、自分に対しての教育方針が、線と線ですべてつながった瞬間でもありました。

ちゃんと生きなければ

自分(石原一平)の写真

「生きているなら、自分らしい人生に、自分が変えていかなきゃ」

母も死んだ父も、そう思っている。

「面倒くさがり屋で中途半端な自分」

それが自分だ。

そんな自分を認めて、ちゃんと自分らしい人生にしなくちゃ。

もちろん、それでも色々とまっすぐに進めない時もありましたし、人生の選択を誤ってしまったり、時には屈折した決断をし、苦しい思いをすることだってありました。それでも、27歳で結婚し、二人の子宝にも恵まれ、仕事も順調にキャリアアップしながら、自分らしい人生を送ろうと日々を楽しんでいます。